元浪人生の大学受験記

元浪人生の雑記。志望校は東京大学文科一類だった

P・ジュースキント『香水』を読む~秘密のトワレとの対比と、秘密のトワレの考察

お久しぶりである

皆様はこの夏、どのように過ごしたのだろうか。私はというと、もっぱら夏期講習に勤しみつつも、息抜きにクリストファー・ノーランの映画を映画館で鑑賞していた。私は彼の作品でインセプションが一番好きなのだが、銀幕で見たことはないので新鮮だった。IMAX万歳。TENET劇場公開おめでとうございます。早く観に行きたいものだ。そんな時間があるかは知らないが

さて、以前から秘密のトワレ作曲の際に参考にされたというP・ジュースキントの『香水』を購入しようと考えていたのだが、ようやく若干の金銭的余裕ができたので購入した。実をいうと、以前書店で流し読みし内容をある程度知ってはいるのだが、やはりしっかりと腰を据えて読みたいという気持ちがあり、購入するに至ったのである。

この小説はドイツで発行され大ベストセラーとなり、映画化され、パフューム ある人殺しの物語として日本では配給された。私の大好きな俳優であるアラン・リックマンジョン・ハートが出演しているらしく、ぜひ鑑賞をしたいと常々思っているのだが、残念ながら未だにできていない。小説は厳しいという方はこちらから見るのもいいだろう。

さて、内容についての解説は、調べたら出てくるだろうから書きたくないのだが、この記事の目的であるところの一ノ瀬志希のソロ曲であるところの『秘密のトワレ』との軽い対比をする上で、ある程度は重要であると考えるので、大雑把にすることとする。なに、現代文で要約の問題を解いているのだと思えば、この程度は容易い。

まあ、手短に話すならば、驚異的な嗅覚を持つが自身の匂いというものを持たない、関わったほぼ全ての人間を不幸にする(死は不幸あるとするならば。とある人物は死にはしたが自説の誤りを知ることなく死に、信奉者がその死によって増加し、受け継がれているので、私はある意味でその人物は幸せだと思う。)人殺しの話である。もっとも、『香水 ある人殺しの物語』というタイトルを見れば誰だってこの小説は匂いに関連する人殺しの話なのだと一瞬で理解できるのでこれでは要約ではない。それでは始めようか。

フランスはパリで生まれた匂いのない男の子、ジャン=バティスト・グルヌイユは驚異的な嗅覚の持ち主だ。一度嗅いだ香りは忘れず、それを組み合わせて新しい香りを脳内で作り出すことすらできる。また、匂いだけで何がどこにあるのか完全にわかるのだ。それを奇妙に思った乳母が皮なめし職人へ彼を売り、そこから物語が徐々に転がりだしていく。彼は皮なめし職人の徒弟となるのだが、最終的にはある程度の自由を許可される。その自由な時間に彼は今まで嗅いだこともない理想の匂いを見つけ、それの発生源である少女を殺し、思う存分体の隅々の匂いを嗅ぎ、それを脳へと焼き付ける。我々からすれば変態である。第一の殺人だ。その後、彼は実際に匂いを作り出すすべを学ぶべく、香水職人に弟子入りする。そこで初めて香水を実際に作り出したシーンがこの小説の最初の山場だろう。この作品における殺人はあまりにもあっけなく淡々と終わるので、山場にはなりえないのだ。最後の殺人ですら。そして、そこで香水を作るすべを学び、匂いを抽出するすべを学ぶのだが、残念ながらその手段は彼にとって完璧と言える手段ではなく、その他の匂いの抽出法を学ぶべく、グラースへと旅に出る。ただ、いざパリを出ると、人間というものが嫌になって七年間も山の頂上に引きこもる生活を始める。そこで自分に匂いというものがないと気が付き、あまりの気味の悪さから、人里へと帰還する。そこで自身が七年も盗賊に閉じ込められていたのだと嘘を付き、私は香水職人だから香水を作らせてくれと香水の工房を借りて、人間の匂いを猫の糞などおぞましい材料で作り出した。それをつけることで初めて、彼は気味の悪い何かではなく、人間として扱われる事となったである。その後彼は当初の目的通りグラースへと行き、様々な匂いの抽出法を学ぶのだが、その時パリでかつて嗅いだ最高の香り、いやそれ以上の香りを持つ少女を発見する。彼は思った。なんとしてもその香りがほしいと。そして、その香りをもって究極の香水を作るべく、手始めに様々な美少女を25名殺害し、その香りを奪った。そして、その女性の香りが最上へと達したその日、彼はその少女を殺し、全身から香りを奪い、髪や衣服からもその少女の香りを抽出、究極の香水を作ることに成功する。しかし、殺人犯であることが知られ、彼は逮捕。裁判にかけられ死刑が確定する。処刑の日、グラース中の人々が処刑が行われる広場へ集まり、グルヌイユの処刑を今か今かと待ち望んでいた。そして、彼が処刑場へ馬車で降り立ったその時、その場にいた誰しもが、彼が神であり、無罪であると確信した。究極の香水を使った彼は、その場にいる全員にとって愛おしく、また神々しく感じられたのだ。広場に集まった市民たちはわけも分からず乱交を始め、自身が殺した娘の父親が自身を息子と呼ぶ。そんな光景を見た彼は絶望し、パリへと戻った。彼はパリで浮浪者たちのグループへ紛れ込んだ。そしてそこで究極の香水を大量に使い、その身を彼らに喰わせこの世を去った。

これが大まかな流れだ

では、秘密のトワレと対比、といってもたいして対比するものはないが、対比していこうと思う

両者とも人間の体から匂いを抽出し、それを用いて香水を作るという点で一致しているが、大きく違うのはその目的である。この小説では自身がその香りを楽しみたいがため、またその香りをまとって自分の才能というものを顕示し、匂いによって神になるために作り出したのだが、秘密のトワレは可愛らしいもので、意中の殿方を手に入れるために自分の匂いを抽出し惚れ薬として香水を作り出す。これは大きな違いだろう。つまるところ、グルヌイユは匂い以外に興味などない、愛を知らぬ人間であったが、トワレの少女は愛を知り、相手を自分のものにすることを切望する可愛らしい少女らしい少女なのだ。

そして、目的が違うのだから、当然匂いを抽出するするために殺人を犯すか否かも変わってくる。グルヌイユは究極の香水を作り出すためには殺人は厭わない。現に26人もの少女を殺害し、また幼少にもうひとり少女を殺している。しかし、トワレの少女は自身の匂いを抽出し、それを用いて相手を自分のものにしたいのだから、当然抽出のために殺してしまっては意味がない。自分を殺したら誰が抽出し誰がそれを使うというのだろうか。

対比できる点は大まかにこの2つだろう。そして、これら2つを見比べていると、何かに気づかないだろうか。

私はこう考えた。意中の人物を手に入れるために、自身の持つ魅力を利用することは、なにか悪いことなのだろうかと。考えても見てほしい。外見に自信がある人間はその外見を、性格や言動に自信がある人物はそれを、学歴といった社会的ステータスがある人間はそれを利用して恋愛をうまく運ぼうとするのは自然なはずだ。では匂いでは?匂いももちろんそうだろう。そうでなければ香水の種類というものはこうもたくさんあるわけがない。

では、彼女がとった行動というものは、一体どんな問題があるのだろう。何も問題はないはずだ。自身の魅力を最大限に利用し且つ、薬を用いて恋愛状態にあると錯覚させる。それは外見に自信がある人間が化粧をして、吊り橋効果やらなにやらといった駆け引きを利用して恋愛状態にあると錯覚させることと結果的に見れば同一のことに過ぎない。それは皆がやることであり、問題性があるというならば恋愛というものが問題になるだろう。

ならば、彼女が言うところの"Cupidoの戯れ"を彼女自身も形を変えてやっていると考えられないだろうか。そもそも自身の匂いを抽出し、それを用いて惚れ薬をつくるなんて、時間も労力もかかるだろう。時を無駄にはしない主義だというが、前述のことを考えるとそれはある種の矜持であると考えられる。例えば顔に自信がある人間はその魅力を最大限に利用して意中の人物を陥落せしめた際に、時を無駄にしたと思うのだろうか。思わないはずだ。

つまるところ、愛の表現方法が多少ずれているだけなのだ。人間は言葉で愛を紡ぐが、彼女は匂いで紡ぐのだ。考えても見てほしい。好きでもない人間に自分の匂いを最大に引き出したものを嗅がせるだろうか。そもそも好きな人物に匂いを嗅がれるのですら、普通の人間は嫌がったりするものだ。ならば、ありのままの自分を見せつける彼女の行為は、我々が俗に告白というものと、なんら変わりのないものだと言えるのではないだろうか。

そしてこの解釈でも"Crazy things"や"清浄なる世界~"の意味は通るのではないだろうかと私は思う。一般的な愛情表現とずれているならば、たしかに相手の男性にとっては奇妙なことに見えるだろうし、そのズレが無い状態でこうなりたかったとしても、本当の自分を見せつけたあとではもはや戻りようはないのである。なればこそ、彼女は優しくごめんねと言うのだろう。キミと違う、あたしのやり方を押し付けてごめんなさい。できることならば、キミと同じでありたかったけれども、でもあたしはキミと違うのだから、これは仕方がないじゃない?だからごめんねと。私はこれにもののあはれとやらを感じるし、これもまた、これを歌う一ノ瀬志希らしさというものが出ているのではないだろうかと思う。

実は、自分に自信のない女の子が惚れ薬を使ってだとか、合理主義的に薬を使うのが手っ取り早いから薬を使うだとか、そういった曲が彼女の曲であることに少し違和感を覚えて居たのだ。なぜなら彼女は自信の塊であり、そして人生を楽しみつくそうという人間で、前者の解釈とあまりマッチしないと感じてしまうからである。ようやく自己流の解釈が見つかったと思う。何であれ、本を読むことは視界を広げることに他ならないと実感した。

お目汚し失礼した。正直理論展開に穴があったりするのはわかっている。ただ私が言いたいのは、「これはこれで面白いじゃない?」ということ、ただ一つだけである