元浪人生の大学受験記

元浪人生の雑記。志望校は東京大学文科一類だった

ギフテッドに関するある記事を読んで

18日の21~22時頃、突然本ブログに15人もの人が来た

こんなインターネットの辺境にである。正直びっくりした

さて、原因を究明してみよう どうやらこの記事がニコニコニュースで公開されたのが原因のようだ

ADHDと発達障害とギフテッドと、あるべき社会の方向性 | ニコニコニュース

正確には診断されたわけでなく自己診断だが、1ギフテッドとしてこの記事の感想を書こうと思う

ADHDについては、正直ギフテッドから見たギフテッドについての記事の批評という本記事の趣旨にそぐわないので記述するのを飛ばさせていただく事を了承いただきたい

まず、日本語で最も優れたギフテッドに関する文献が日本語版wikipediaであるというのは、インターネット上においてという条件付きでだが、同意しよう。私もそう思う

正直この記事を読んでいると自身をギフテッドと定義することに対しての疑いが完全に消え失せる

そして能力平等主義への殺意が抑えられなくなる。

努力すれば、勤勉であれば、人間は皆同じペースで成長・発達していくものである、あるいは、いくべきである

 これは欧米と日本での認識の違いに言及する専門家の発言の一部の引用であるが、このようなまったくもって無責任な考えに私は殺意を覚える

努力してもできない人間がいる。私は学校でそう教わった

中学生のときである。英単語を毎日1ページ書いて覚えようといった内容の英語ノートという宿題が出されていた

私はやる意味を見いだせないので全くやらなかったが、真面目な子達はきちんとやっていたし、あるとても成績が悪い子は努力をして追加で何ページもやり、黒板に張り出された英語ノートページ数ランキングでトップにいた。

現実は非情なものである。その子のその後の英語の成績は10点台。私は90以上であった

努力をしてもどうにもならない彼と、一方で何もせずに上位にいる自分

両者の差というものはなんだろうか。答えは簡単である。生まれ持った才能の差だ。それ以外になんと言えるだろうか

私は努力をしている人間を尊敬する。私は正直彼も尊敬していた。その一方で、腹を抱えて笑いたくなる自分もいた。私は後者の自分が死ぬほど嫌いだ

努力しても所詮そんなものか。努力なんて意味がないな。バカは何をやっても意味がないんだな。とても滑稽だ。などと思う私と、努力している彼を尊敬する私

どちらも私であるので、嫌いだが完全に否定はできない。実際のところ、そういったもので愉悦感を感じるのはとても気持ちがいい事であると認識してもいるからだ。最も、そういった気持ちよさも、自身のそう感じるお前はクズだなという心の声にかき消されるのだが

私はこれ以来、努力すれば誰でもできるなどと言った無責任な意見は口が裂けても言えなくなった。努力してもどうにもならない人もいる。逆に努力などせずともどうにでもなる人もいる。これが事実だと、もはや私は信じて疑わない

勤勉さや努力は尊ぶべきものであるが、それが成果に繋がるとは限らない。と、いい加減世の大勢は理解してほしい

さて。次へいこう

上手くやれる発達障害がギフテッドで根は同じというものに少し引っかかりを感じたが、正直これは自身を発達障害と同じにされるのが嫌だという所に由来するものであると自覚しているので特に何も言わない。どのように考えるのも自由だからだ

その後のギフテッドに関する問題点の項目については完全に同意する

先日、と言ってもだいぶ前だが中学数学の復習をした。私は数学が数ある座学の教科の中で唯一苦手だし、嫌いだが2時間ほどで終わってしまった。

苦手な私が2時間で終わるのだから世の一般的な人間もそうに違いないだろう。これを読んでいる方も復習してはいかがだろうか。中1から中3まできっと2時間ほどで終わり、これをダラダラやる中学の3年間とはどれだけ意味がないものなのだろうかと考えさせられるはずだ

そしてわかったのだが、やればできるという事だ。ノー勉で挑んだ高校入試でルートやら2次方程式の計算の仕方がわからず、苦手意識を抱いて以降ずっと放置していたのだが(それまではむしろ得意だと思っており高専を志望していた)、やってみれば5分で理解できてしまった。どうして高校受験の前に5分ほど時間を割かなかったのだろうかという後悔に襲われたが、どうせ入っても辞めただろうから何も変わらない事に気づき気分が明るくなった

やればできるがやる気を起こすのはとても難しい。これは2時間で終わった作業だったが始めるまでに一月はかかったように感じる。数学が大嫌いだから仕方がないが

自分の得意な科目じゃなくとも、平均以上の点数は優に出せるなんていうのは当たり前だろう。やった事も見たこともない記号やら理論やら単語やらが出まくってわけがわかなかった昨年春の数2Bの模試くらいだ。平均以下を取ったのは。中学の知識すら一部欠如している状態でアレを時間内に解くのは数学弱者にとっては至難の業としか言えない

結論から言えば世のやればできるを本当にギフテッドはやれるという点には強く同意する。実際必要に迫られているためやっているが、できるからだ。なぜやればできるのかは知らない。それが私に与えられた才能だからだとしか私は言えない。むしろ、なぜあなた達はやってできないのか、私には理解できないので教えてほしい

ただ、これに当てはまらないギフテッドもいるのが現実というものだろう。私がたまたまそうであっただけである

さて、次だ

右脳左脳についてだが、まあ右脳左脳という書き方が嫌いだが言いたいことは理解できるし、その次の項目であるギフテッドは両者が強いということも途中までは強く同意できる

だが、その先に対して私は違うと言いたい

右脳が衝動性やら感情を、左脳が統制をという論理において、確かに右脳が強く左脳弱いのが発達障害と分類されるのはそうなのだろうと私も思うが、右脳も弱いが左脳はもっと弱いをただの能力不足だと論じているところは断固として認められない

もしそうなのならば、その能力不足というものが一種の発達障害だと認められるべきであり、そもそも、そういったケースは右脳が左脳よりも相対的に強いのだから、この論理の中の発達障害に当てはまるはずだ。それを発達障害ではないと論じる筆者の論調には強い嫌悪感を覚える

何がただ左脳側が弱いだけだ?結果的に右脳側が強いからそれに苦しんでいるんだろう。それがなぜわからないのか、正直私には理解できない。私は普通ではないので私が理解できなくても世間一般では理解できるのかもしれないが、これに関しては普通の人でも私と同じ事を思うのではないだろうか

その後の記述に関してはもう私は嫌悪感しか覚えない。私は彼のような人物に活躍の場をだとか、社会の中での自由だとか、語られたくはない。私は彼のような人物が他人の能力を評価できるとは考えられないし、わかったように語られるのに非常に強い嫌悪感しか感じない。

自由なコラムライティングでもしたらだどうだだと?了解した。これが自由なコラムライティングだ。

あくまで1ギフテッドの意見に過ぎないが、あなたのような人物にとやかく言われてまで社会的に活躍の場やら社会的な自由だだとかが認められるようになる事を私は全く望んではいない

人は他人に対して自分の能力の分でしか評価できないというのは事実なのだろう。この記事自体がそれを裏付けているとしか私には思えない

筆者は究極的には自殺を選ぶ人物は少なくないと言っているが、自殺率とギフテッドの相関は科学的に立証されていないし、自殺や慢性うつ病との関係だって科学的に立証されていない。所詮は自殺を持ち出して問題にしようとしている意図があるようにしか見えない。誠に残念だが、ギフテッドというものは一般人とは違って、自殺を合理的だからと選択はしないものだ。個人個人で独特な悟りをもってそれを指針として生きていくはずだ。私がそうであるように