元浪人生の大学受験記

元浪人生の雑記。志望校は東京大学文科一類だった

昨日の続き。冷静になって考えようか

さて、冷静な状態で再度見返せばまた違った思いや考えを抱くのではないかと考え、再度読んでみた

結論から言えば無駄であった。やはり何度読んでも怒りを感じる文章というものは怒りを感じさせてくれるので全くもって素晴らしい

結論から言おう。あの記事を書いた人間は自らの論理が破綻している事に気づかない者であり、そもそもギフテッドに対する理解など無いに等しい

彼風に左脳側が足りていない人間とでも言った方がいいかもしれない

さて、まず賢さというものは何なのだろうか。私は自身を賢いと思うが、同時に愚かでどうしよもない人間であるとも認識している。そうなってくると、賢さと愚かさというものは両立しうるものなのではないかという疑念が生まれる。そして、合理的思考力や理解力が高いのが賢いならば、私は賢いし、愚かであると言える。私は合理主義の権化であり、それと同時に非合理主義の権化でもある。そして私は理解力があるし、同時に理解力はない。

それなのに、左脳の強さで賢さやら愚かさやらを決めると言うのであれば私は一体何なのだろうか。左脳が2つでもあるのだろうか?両立しうる概念を直線状に並べ、こうならばこう、そうならばそうだと決める事こそ、愚かというものなのではいのだろうか

そもそも、右脳が感情左脳はそれを抑制するという主張であったはずなのに、左脳が強ければ賢いし。弱ければ愚かと賢さやら愚かさというものが出てくる時点で論外なのは言うまでもない事なのだが

次にいこうか

左脳が弱く右脳が強いのが発達障害という意見には私は何も言わない。それ自体はそういった見方もあると納得がいくものがあるからだ

だが、右脳が弱く左脳がもっと弱い人はただの能力不足な人とは一体、何なのだろうか

右脳が弱く左脳がもっと弱いというのはすなわち、右脳が左脳よりも強いということである。当たり前だが

右脳よりも左脳が弱いのが発達障害というのが彼の定義であるが、それに照らし合わせれば右脳が弱く左脳がより弱い人というのは定義にしっかりと当てはまる。それをただの能力不足だとか我慢が足りないと言って左脳を強くする努力をしろだとか言って切り捨てるのはただの差別ではなかろうか。しかも、発達障害同士の分断をはかる悪質な言動と言えるだろう

だいたい、なぜギフテッドがギフテッドと言われるのか彼は理解しているのだろうか?神が与えし才能だからギフテッドなのだ。神が人間の能力を決めているという実にキリスト教的な考えがもととなっているのだが、それを語る人間が左脳側が弱い人間は努力して...などと言うのはギフテッドに喧嘩を売っているようにしか私は思えない

努力すれば皆が同じようになれるというのは大間違いだ。そのような考えこそがギフテッドという物に対する足かせになっていると理解していない人間がギフテッドについて語ろうだなど、笑止千万と言っていいだろう

はっきりと言おうじゃないか。確かに我々ギフテッドは感情性やらが高いので苦労したりするのは事実だ。私はそうだ。だがしかし、それは私個人で解決すべき問題であり、そういった感情の問題によって社会的に認められないだとか社会的に底辺にいるのは私の責任である

真に忌むべき問題は、能力平等主義なのだ。努力すれば皆同じようになれると言うのは幻想でしかない。そしてこれこそがギフテッドが日本において苦しんでいる元凶であると私は言いたい。能力不足の人間に対して能力平等主義を振りかざすような人間が私は機会平等主義ですなんて味方のような面をしてすり寄ってくるのは不気味でしかない